2013年7月26日金曜日

1.6. 創造性の発揮を阻害する負の要因 - 1.6.5 ACの親が子どもを育てるとどうなるか?(FUDの無意識下での連鎖)

1.6.5 ACの親が子どもを育てるとどうなるか?(FUDの無意識下での連鎖)

 




自尊心形成の第一段階で、親からの正しい愛情を受けることが出来ずに、既に歪んでいる子どもたちが非常に多いと考えられる。自尊心形成の第二段階で存在意義を明確に子どもに与えている親は非常に少ないように思われる。従って自尊心形成の第三段階に行く前の時点で、恐らくほとんどの子どもたちの自尊心は歪み傷ついている。
それは何故か?それは今の親たち自身が育つ段階で既に正しい自尊心形成に至っていないのである。要は子供のみならず今の大人達が互いに自尊心を築き上げることすら困難極まりない状況なのである。まさにFUDに支配されたACの連鎖である。

 
FUDに支配された親の行為は、子どもにとって自分は愛されていないとこ、即ち親にとって子どもより優先させる大切なことがあることを自覚させる。子どもを愛し、ありのままに受け入れるよりも、親自身が周りから良い評価や好意を持たれたいと思う気持ちの方が、子どもより大切だということを幼い子どもは明確に察知するのである。また周囲の目から見て、普通の子と言う価値観に合致しない子どもは親の評価を低める悪い子であると言う印象を子どもの心に焼き付ける。良い子でない自分は親に愛されないということに気づき、あるがままの自分は無価値だと思い始める。人は「人である以上、存在する価値が十二分にあるのだ」と感じ、自尊心を正に形成する時であるにも関わらず、これは非常に残念な状況である。
また、このようにして育った子どもは、大人になってからも正しい判断基準に基づいて決定することや、自分や関係者とのコミュニケーションを通して自分の責任において決定することが出来ず、目の前の相手や周りの人たちの感情によって物事を決定する人に育っていく。周りの人に左右されるが故にその人自身の決定事項がいつも揺らいで、二次的な問題を招くことが多い。

 
自尊心の形成を度外視した教育は、結果的に利己的な子どもを量産する。言いかえればFUDに支配された心は、利己的なものしか生まないのである。親の利己心から生まれた感情による行動の結果、自尊心を大きく欠いた子どもを育て上げる。その子どもが成長すると、自尊心が無いが故に自分が無いので、ACの共依存になる。自分の居場所、自分の存在価値が無い事への恐れや疑いや不確実性から逃げ出すために、自分のその感情(FUD)を第一優先にし、自分の居場所を自分の存在価値を求めて偽りの自分を他人の前で演じることになる。その結果、自分の子どもにも、親から受けた傷を後世に受け継いで行くことになる。
感情による行動は確かに短期的にはうまく行くように見える。しかし、結果的には永遠に自尊心を持たない利己的な子どもを量産することに加担しているにすぎないのである。まさに、感情にハイジャックされた行動は長期的に見て良い結果にならない典型的な例である。
私たちは、最後まで諦めずに、恐怖に打ち勝ち、正しい造りに則り、正しい思考をし続けなくてはならないのである。そうしない限り、本当の幸福は味わえないのである。

1.6. 創造性の発揮を阻害する負の要因 - 1.6.4 アダルトチルドレン(AC)の連鎖(FUDに心を支配された子供たち)

1.6.4 アダルトチルドレン(AC)の連鎖(FUDに心を支配された子供たち)



我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのにだ。― ラブリュイエール

 
FUDに支配された傾向の所産とも言えるのが、アダルトチルドレンと呼ばれる人々の存在である(すでに日本は一億総ACと言われて久しい)。ACは「条件付きの愛情」と「共依存 (co-dependency)」が特色となっている。



1)            条件付きの愛情

親の愛情が、無条件の愛ではなく何らかの付帯義務を負わせる「条件付きの愛」であることが問題となる。これが継続的に行使される家庭では、子供は親の愛を受けるために常に親の意向に従わなければならず、親との関係維持のために生きるようになり、この時点で親子関係は不健全であるといえる。主に幼少期からこうした手段が用いられ始め、子供の精神を支配する手段として愛情を制限する。 
この手段は子供が成人する段階になっても継続され、引き続き成人した子供(Adult Children)の精神を支配する。実はこの状況は非常に多くの家庭に存在しており、子供は常に不健全な状況にさらされている。しかし、第三者からは一見してこのような家庭はなんら問題のない普通の家庭として認識される場合が非常に多く、「条件付きの愛」は普通と称される家庭の病理性の深さを象徴する現象であり、最も基本的な精神的虐待である。しかし現実に、無条件の愛を常に実行できるかというとこれはきわめて難しく、健全な家庭を目指すには、いかに「条件付きの愛」を減らせるかという程度問題に注視されるものである。


2)            共依存(co-dependency)

典型的な例として、親が強力に子供の精神を支配する行動が、子供の方も支配されたいという特異な感情を生み出し、親も子供も支配し支配されることに奇妙な安心感を見出して、支配を通して相互依存するという現象がある。これは子供にとって支配に反抗するより支配を受け入れる方が家庭内で波風を起こさなくて済むため、平穏な環境でいるためのサバイバル手段と解釈されている。通常、子供はある年齢に達すると親の支配から脱しようと試みるのが自然な形態であるが、この相互依存関係が強い場合親子関係は成人してもなお、支配の相互関係という不健全な状態が続く。よりわかりやすい表現で表せば、子離れせずに子供を人生の目的とし続ける親とそれを受け入れ続けざるを得ない精神構造を埋め込まれた子供、ということになる。これがひどい場合は親が死亡するまで関係を健全化することができず、極端な例として女性の場合は母親が死ぬまでともに暮らす、つまり一生結婚の機会を奪われることもある。 
 
 
ACであるが故に他人が自分を良い人と評価すれば、自らに存在する価値が生まれ、同時に喜びが生まれると言う構図となる。では逆に他人との関係で人に評価されないときに、この様な人はどうなるのだろうか?その人の存在価値が無いと結論付けることになる。そうなりたくないと言う恐怖(F)、もしかすると自分は駄目な人間なのではないかという疑い(D)が生まれる、自分はいい人になりたいが無理かもしれないと言う自分に対する不確実性(U)等々の感情が心を支配することになる。この恐怖と疑いと不確実性から解放されるためには、自分自身の正当な欲求や感情を殺してでも周りの人たちに好かれ、受け入れられるよう心が必死になるのである。自分がいい人になる為には、自分の子どもも同じように周りの人たちに受けいれられる、良い子でなければならない。多少の感情の起伏や、表現上の違いはあるものの、ACの共依存症であるならば、その人の感情はこの様にFUDに日夜さいなまれる結果となる。更にそうした傾向を持つ人々は、自分自身が世間から嫌われたり、低い評価を受けたりしたくないという利己的な恐怖に動かされる結果として、子どもが持つ正当な欲求や感情をいとも簡単に無視してしまうことがある。     
 

1.6. 創造性の発揮を阻害する負の要因 - 1.6.3 FUDによる心の支配

1.6.3 FUDによる心の支配

 


我々は、幸福になるためによりも、幸福だと人に思わせるために四苦八苦しているのである。― ラロシュフーコー
 
 
FUDとは、不安(Fear)、不確実(Uncertainty)、不信(Doubt)の頭文字を取ったものである。FUDは人から弱さを引き出す最も有効な方法論で、心に深く傷のように作用する。不安や不確実や不信の種をまくことにより正しいことをする事に恐怖を植え付け思いとどまらせる。それどころかまったく反対の行動を取らせる手法でもある。現在では人を先導する為に多くの企業が用い、個人的な人間関係にも、そして親子関係ですら使用されている。
 
 
人が本来の創造性を発揮する最大の動機はアガペーで有るべきであり、アガペーを動機としない限りは、良いものは生まれない事を今まで見てきた。しかし、私たちは意識し、認識し、目覚めていないと、心はいつの間にかFUDに支配される社会組織構造(哲学的な言葉で、この様な支配的な傾向または影響力またはカラクリを霊と言う)の上に生活しているのである。
 
 
 
例えば、FUDは競合相手が自分達のものより優れていて、しかも価格も安い、つまりは自分達の製品では太刀打ちできない製品が発売されるときに利用されるマーケティングのテクニックである。具体的な事実でもって応酬できない場合に、不安による扇動が「ゴシップ筋」を通して、競合相手の売り込みに対し疑惑の影を投げかけ、競合相手の製品を使うのを思いとどまらせるのに利用される手法のことを言う。こうした手法は実際にIBM社がIBM PC の発売によりデスクトップ市場に参入した際、またマイクロソフト社MS Windows 3.1 MS-DOS併せて売るように仕向け市場の独占を画策した際に用いられ奏功した。また今日テレビや新聞のCMなどにも、広くこの手法が用いられていることに気づく。
FUDという手法には、本来であれば太刀打ちできない強大で確固としたものでさえいとも簡単に打ち崩し、その上相手を意のままにコントロールする力があるという訳である。
 
私たち自身の実生活について考えてみる時に、実は私たちもこのFUDに支配されて行動している傾向が見られる。親の例を挙げるとするならば、世間から自分の子が否定されることや、自分自身の親としての働きを否定されることへの恐怖に動かされて、世間から受け入れられるであろう行動(相手に合わせたり、ひたすら下手に出たり、何でも謝ったり)へと自分や子どもを強いることがある。また将来に対する不信感が募るあまり、本来自分自身がしたいことやすべきことを認識することができなることもある。

 

 

1.6. 創造性の発揮を阻害する負の要因 - 1.6.2. 偽善

1.6.2 偽善


自分自身に正直であることはなんと困難なことだろう。他人に正直である方がはるかにやさしい。― エドワード F.ベンソ

 
一番だまし易い人間は、すなわち、自分自身である。― パルワーリットン

 
家庭内ではがさつ者,外へ出たら天使。― ドイツのことわざ

 
一つの偽りが千の真実を損なう。― アフリカのことわざ

 
これは 弱さ故に発生する事象の一つである。意図してうそを語ったり、家の内側と外側で二面性を持つなどの方法で偽善的な態度を示すことはもってのほかであるが、それよりも厄介かつ深刻なのは、自分の考えや気持ちを正直に分析し把握することができずに、事実と偽った(または乖離した)自覚を持ち、それに基づいて判断を下すという類の偽善である。人は知ってか知らずか自分自身で自分を欺くことがあるのである。ありのままの心は本当に不実である。

例えば、父親が正直なところ、会社における立身出世から快感を得ることが会社に勤める主たる動機であるにもかかわらず、自分は家族のために“のみ”日夜働いていると誤って自覚しているという場合がそれに当たる。また、他人から傷つけられ、正直なところ傷つけた当人に仕返しができなければ、或いは傷つけた当人から心からの謝罪がなければ傷つけた当人を許すことができないという気持ちであるにも関わらず、仕返ししたい気持ちや許せない気持ちを、悪い感情であると決め付け、悪い感情を持つことはいけないことだと判断し、仕返ししたい気持ちや許せない気持ちを全くケアすることなく、相手に対する悪感情を完全に打ち消そうとするという場合もそれに当たる。
思考をすることもなく、自分の心を欺いたり、麻痺させたりして、実際に存在している事実をあたかも存在していないかのようにするのである。

何故こうした作用が起きるのだろうか?

 
それは、自分自身や社会が描く本来の理想から外れた状況にあるという紛れもない現実に直面することにより、当人が罪悪感や羞恥心に責めさいなまれ、その状況を真正面から受け止めることができないという心の弱さが関係している。人は一度こうした状況に陥ってしまうと、人として自由意思を行使することができなくなり、正しい思考のプロセスを踏襲できない人になってしまう。結果として、他人の決定に従う判断しかしない人になったり、自分の目先の利益を得たいと言う感情を優先する人になったりし、自分自身や他の人を欺く行為に出ることになる。

しかし、正しい事を行う人は、自分の考えや気持ちを正直に分析、把握し、それを受け止め、正しい思考により思いを作り直し、良いものを選択する行為を行う。

1.6. 創造性の発揮を阻害する負の要因 - 1.6.1 弱さ

1.6 創造性の発揮を阻害する負の要因

1.6.1 弱さ


 


人生は全て次の二つから成り立っている。したいけど、できない。できるけど、したくない。― ゲーテ

 

当然のことながら、人は自由に自分の意志で、敢えて悪いものを選択することも十分可能である。こうした不条理な事象が発生する原因として、正しい規範に基づき、正しい思考力を発揮しきれなかったこと、また(過去に受けた精神的な傷に由来するのかも知れないが)なす術なく利己的な感情に流されたことなどが考えられる。この様な状況にある人の心理を、私たちは弱いと言うことにしている。

 

「ブリタニカ百科事典」は倫理について「人が道徳的に何をすべきか知っていながら私利私欲を求めるのは,意外なこととは言えまい。そのような人々に正しい事柄を行なう理由をいかに示すかが,西洋倫理の大きな課題となってきたのである」と述べている。

 

熟練した技術者、また卓越したスポーツ選手になる為には、日々の鍛錬が必要となるのと同じように、私たちが正しい知識に基づいて正しい規範を反映し、正しい思考力を発揮し、最善の選択するためにも鍛錬が必要となる。最初から思考力のある人はいないのである。それゆえにも、正しい思考力を手にして正しい自由意思の行使が出来るその日を夢見て、最後まで諦めないこと、それが本当に重要な特質なのである。弱さに打ち勝つもっとも有効な手段は、最後まで密着して離れず諦めない事(忠節)である。

 

1.5. 創造性教育

1.5 創造性教育



1.5.1 私たちの教育とは


自分を持つためには、第一に個人の存在を明確に肯定する自尊心、第二にその自尊心に裏打ちされた「創造性」が必要となる。

個人的自尊心と正しい規範を基に個人の責任の下、社会の中で正しい思考を駆使し試行錯誤し、より多くの人と関わり、創造性を発揮しながら社会的自尊心が形成されると共に、より創造性を発揮していくようになるのである。

私たちの教育はこの個人的自尊心を育て、正しい規範を教え、正しい思考の基、試行錯誤をし、より多くの人とかかわり、分かち合い共感し、社会的自尊心生成に寄与し、創造性のある人を育てる事を目的とする。

そう、私たちが目す教育は創造性教育である。



1.5.2 創造性教育
創造性を目し、喜びを第一に、正しい自尊心 正しい規範 正しい思考力を発揮し、選択決定するプロセスを教育していく。


1)            方法論   

実践的なカリキュラムによる総合学習を目ざす。

対象の想定範囲
幼児、学童、社会人の三部門に大きく分けカリキュラムを策定する。

各対象者のスキルは自尊心を欠いた、心に傷があり、だけど変わりたいと言う思い、学びたいと言う思いを持った健常者たち。

1.1)幼児用カリキュラム概要(対象想定年齢3歳から7歳)

個人的自尊心形成


 
-          絶対的な安全地帯  

子供の自尊心を育てるには、親の無条件な愛情が幼児期に必要です。幼児期に、ただ存在するだけで価値が有ることを、子供の心に焼きつかせる必要が有るのです。無条件の愛情とはどのようなものでしょうか?

 
それは付帯義務の有る愛情では無いと言うことです。

こう言う子じゃないと駄目!

これが出来ないと、いい子じゃない!

こんなことが好きな子は悪い子!

上記は全て付帯義務の有る愛情表現です。

このような愛情表現は広く世の中で見受けることが出来ます。幼児期には、ありのままのその子を認め受け入れる事が絶対に必要です。

他の子供達とは絶対に比較しない。
何があっても守ってくれる存在。

そう、絶対的な安全地帯に親はなる必要が有るのです。

何故、人はお金を愛するのか?それは、お金はその人にとって、決して裏切らない安全地帯になりえるからです。人は、いくつになっても、心の安全地帯求めます。親からの安全地帯を知らない子供は、人格的な安全地帯を信じられなくなります。
目に見える、物のほうが自分を裏切らないことを信じて疑いません。

物質主義は、親の責任に起因しているのです。
 

我が幼児園では:    
カリキュラムでは常に親と一緒に全てを子供主体に親は極力口を出さずに子供の
決定を尊重し、失敗しても受け入れ、がんばったことをほめる。完成したものはとことん評価する。
常にいつも自分を見守ってくれる親の目=安全地帯が有る。
そんな事を目しています。


 
-          決定と責任   
自尊心を培う為に必要とされる工程には、自分で決定し決定した結果をほめてもらうと言うことが必要と考えています。
では、失敗したときはどうするのか?
その場合は、怒るのではなく、攻めるのではなく、結果の責任を取ると言う事を教える必要があります。

我が幼児園では:  
カリキュラムでは常に親と一緒に全てを子供主体に親は極力口を出さずにまた子供の限界を見極めて子供に決定をさせる事を重視し、失敗しても受け入れ、がんばったことをほめる。完成したものはとことん評価する。
ただし、自分の決定ゆえに失敗した時には、その責任を子どもに最後まで負わせる。

 
この時に重要なのが以下の項目です  

·          決定時に自分が決定したと認識をさせる。(自分が心から選んだと言えること)

·          失敗したときに負う責任は、子どもが負える範囲で、予め子どもに納得をさせる。(これをメタルールと言う。そして常に制約の形をとる)    
       
·          決めて合意した、子どもの負う責任は、親の感情で左右させてはならず絶対に果たさせる。

·          失敗、成功の基準は常に一定していなくてはならない。(常に一定の論理により決定されるべきで、親の感情や状態で変わってはいけない。一貫性が必要)
そんな事を目しています。  
 



-          成長と共感  

自尊心を培う為には今の自分を乗り越えて、乗り越えた自分を仲間に褒めてもらうことが必要と考えています。

では、今の自分を乗り越える手助けには何が有効なのでしょうか?
ピア・プレッシャーです。
仲の良い友達が出来るなら、自分もしてみたい。自分も出来る!
そんな、仲間同志の正の動機付けを与える圧力です。
そして、出来たら友達に褒めてもらう。そんな信頼関係が必要です。
 

我が幼児園では  
·          男女、年長、年中、年少混合クラスでさまざまなカリキュラムや運動会やお楽しみ会の様なイベントを通じて、色々なピア・プレッシャーを受けて成長し喜びを仲間同志で共有して欲しい。 

そんな事を目しています。 



-          原体験    
幼い内に原体験を経験させる事は非常に重要となります。原体験とは、人の手の入らない本当の自然の中に有る、ありとあらゆる色、音、味、匂い、景色、体感を五感を通して経験することです。しかも一人で体験をするのでは無く、仲間との体験が必要なのです。

例えば、一寸先も見えない真っ暗な世界、七色に輝く虹、夜空を覆う無数の星星、太陽の光受けて無数に色が変わる岩岩、視野に治まりきれない広い景観、緑の匂いを感じ、虫の鳴き声を聞き、葉の揺れる音、水の流れる音、稲妻の光と音、風の匂い、草が肌に当たる感触、土の匂い、花の匂い、仲間の汗の匂い、汗の味、水の冷たさ、雪の肌触り、海の青さ、海水の味、魚の内臓の味、肉の味、塩の味、果物の味、草木の味、焦げの味 等々、あげれば切がありません。

原体験を仲間と共有することで共感が産まれます。自分と同じものを他の人と分かち合える喜びと信頼を知ることが出来るようになります。

 

我が幼児園では:   
全ての原体験を数年で体験させるのは時間、場所、お金、等々の理由により非常に難しい現実があります。少しでも多く原体験に近い経験を仲間と経験させてあげたい。食育として料理教室、体育を含む自然の中での午後の自由遊び、遠足や体験学習、語学、音楽、スポーツ教室、花道、芸術教室等々、様々なカリキュラムを通して経験と喜びを与えたい。  
             
そんな事を目しています。  

 
1.2)学童用カリキュラム概要(対象想定年齢8歳から12歳)  

 
2009年より小中高等学校に対し年間約200校に、講演、グループワークをITモラル・リテラシ教育のもと、家庭でのルール作りとコミュニケーションを通した子供の自尊心育成プログラムと言う形で展開しています。また、講演、グループ活動を支えてくださる講師の育成プログラムも展開しております。
述べ受講者18万人

内容に付きましては、NPO法人HP参照

 

 
1.3)社会人用カリキュラム概要(対象想定年齢13歳以上)

 
2010年より大手メーカの新人教育、マネージャ研修を随時開催

メタ認知と言う概念を通して自分の心に向かいあわせ、愛を動機としたコミュニケーションと思考技術をトレーニングします。演習を数多く設け、正しい思考をし決定した事柄から成功体験を得、社会的な自尊感情の向上に努めます。

コミュニケーションスキルアップ講座

社会人基礎力講座

クリティカル・シンキング講座

ロジカルシンキング講座

社会人マナー講座

パブリックトーク演習講座

詳細は弊社HP参照のこと

 

 

 

1.4. ここまでのまとめ

1.4 ここまでのまとめ



教育の目的は幸せになる為である。幸せになる為には、いつも 喜びを感じている必要がある。 喜びを感じ続ける為には、創造力が必要であり、創造力を培うには、正しい自尊心 正しい規範 正しい思考力が必要であることが解った。正しい自尊心 正しい規範 正しい思考力がどのように培われ、どのようなものであるかも簡単に見てきた。そして、正しい自尊心 正しい規範 正しい思考力の相互作用とそれぞれを教育の名の元、責任を持って教える所在も見えてきた。次に、それぞれの相互関係と責任所在を簡単にまとめてみる。


1)            教育上、子どもに対する、親が果たすべき責任

1.1)        自己存在の肯定及び正しい安全地帯の認識を培い個人的自尊心形成。  

1.2)        正しい知識を惜しみなく与え教え、正しい規範の形成の元を子供に築く、即ち、子供に「正しい良心」を形成する。

1.3)        いろいろな経験をさせ、初歩的な正しい思考法を教え導く。  

 
両親ほど最も自然にして最も好適な教育者はいない。― ヘルバルト

 
教育上、親の責任は本当に大きく広範囲に及ぶのである。保育という名にかこつけて、仕事を理由に子供を預けている行為は本来の子供に対する親の義務を放棄しているのに他ならないのである。

 
「託児(親が働きに出ているあいだ子供の世話を他の人にまかせること)は子供のためになるのだろうか?」この疑問を突き止めるため,米国立児童保健・人間開発研究所が行った一つの調査に関する情報がある。
14の大学の著名な幼児保育の研究者たちは1,364人の子供を生後から3歳になるまで追跡調査した。そのうちの20%余りは親が家で世話をしたが,残りの子供たちは託児所や有料のベビーシッターの家に預けられた。結果はどうだっただろうか。タイム誌は次のように述べている。「研究者たちは,質の高い託児所―大人が子供にすぐに反応してよく話しかけるような所―にいた子供たちのほうが,それほど関心を示されない環境にいる子供たちに比べて,言語能力や学習能力を身につけるのにわずかながら有利な立場にいることを発見した。しかし主な結論は,託児が子供の精神的,感情的成長に与える影響は,家族生活の質が及ぼす影響に比べると微々たるものであるということであった。……研究者たちの計算によると,子供たちの間に見られた違いで託児に起因するものはわずか1%で,家族内で経験する事柄の質の違いによるものは32%だった。このことから何が分かるだろうか。本当に意味のある教育は,家庭を中心になされているということである」。

 

 
更に、米国のウィスコンシン大学の研究者たちは,ごく幼い時期に親から引き離されるといったストレスとなる出来事が,ぜんそくや関節炎や白血病などの病気と関連していることを指摘している。アメリカン・ヘルス誌の記事によると,心理学者のクリストファー・コウは,「親から引き離されると,非常に幼い子供たちに特に不利な結果の及ぶことがあり」,「免疫機構が抑制される場合もあると考えている」。コウ博士は,「6か月未満の幼児を託児所に預けることさえ危険となりかねない」ことを示唆し,「我々は健康を最大限に活用するために,子供の感情的な安定性をはぐくむよう心がけるべきだ」と結論している。

 
加えて「人生の最初の3年間」の著者,バートン・L・ホワイトは「親と同じ程度のことを子供にしてやれる託児所などというものはない」と述べている。子供たちの人生の最初の3年間を子供たちと共に過ごしてやるために,親は出世を先に延ばし,さらには貧しい生活をもいとうべきではない,とホワイトは主張している。この提案には例外もあることを認めながらも,一般論を言えば,子供の必要にこたえ応じ,子供の成し遂げたことをほめ,その成長の方向付けをするのに一番適しているのは生みの親である,とホワイトは考えている。そして,「自分の子供を育てるのに,自分よりも優れた人が得られる可能性はそれほど高くない」と付け加えている。

現在、日本では教育法の名の下、本来責任を持たなくてならない親に責任を放棄させ、義務教育と言う場に子供を縛りつけ過ちを犯し続けている、しかも今後、年長児教育まで義務教育制を検討している状態である。まさに、悪夢である。